郷土芸能である島原七万石踊りと島原の歴史について

今日は近所の公民館祭りにて「島原七万石を踊る会」で出演中の母を応援に行ってきました。

以前から「島原七万石踊り」を練習したり、人が集まる行事に呼ばれたりしているのは知っていたのですが、母の踊りを見るのは今回が初めて!

いつもはもっと多い人数で踊る事もあるそうですが、今回の舞台はちょっと小さ目。

なので人数もちょっぴりですが、所作も揃っていてとても綺麗でした。

今回は、この「島原七万石踊り」について、ご紹介しようと思います!

七万石踊りを披露している母とその仲間

島原七万石踊りの歴史

戦後間もない時期、地域の復興・振興のため、当時の観光団体が郷土作家の宮崎康平氏に作詞を依頼しました。

そうしてできたのが「島原七万石」で、曲や踊りがあわせて作られました。

宮崎氏は小説「まぼろしの邪馬台国」や「島原の子守唄」の作者として広く知られている方です。また女優の宮崎香蓮さんの祖父でもあります。

終戦後は社会を明るくしようと、島原半島で盛んに踊られていた「島原七万石踊り」ですが、 時間と共に衰退の危機に直面しました。

その為、地元の有志達が2007年、「島原七万石を踊る会」を結成し、現在会員は島原半島に約120人位いるそうです。

「島原七万石を踊る会」は、県内のイベントがあれば、地域を代表する芸能の一つとして出演したり、子供たちに指導したりして、未来へ繋いでいます。

「島原七万石」の歌詞

それではここで「島原七万石」の歌詞をご紹介します。

島原七万石(祝い唄) 
宮崎康平氏 作詞

一.ここは筑紫の不知火もゆる 松の島原七万石は 重ね扇の それ紋どころ 今日のよき日を寿(ことほ)ぎまつる

二.目出た目出たやお城の松は 松がゆかりの松平様 水もたたえて濠さえ碧く 仰ぐ森岳 はや春霞

三.頃は元和(げんな)の始めにとかや 松倉豊後の 重政殿が 城を築きて 森岳城と 名づけてここに町ひらけたり

四.春はつつじの御花園に 秋は紅葉の綾なす錦 雅ぞ今に袖ひきとめて 水の都と謡われにけり

五.出船千艘(せんぞう) 入船千艘 沖のかもめに 潮待つ船は あれぞ八反帆(はったんぼ)の 大阪通い 乗せて進じよう そなたの夢を

歌詞に出てくる「森岳城」とは島原城のことです。雲仙の火山にはぐくまれた豊かな湧き水も歌われています。

実はこの「島原七万石」の歌詞は、もう一つあるのです。

先ほどご紹介した「祝い唄」と、もう1つが「殉教賦」と言われてるものです。

どちらも宮崎康平氏の作詞ですが、まずはその歌詞をご紹介します。

島原七万石(殉教賦)
宮崎康平氏 作詞


一.ここは筑紫の不知火もゆる 荒磯の岸に岬も絶えて 血汐に染みし 伴天連の夢 今はむなしく とう人ぞなし

二.あわれと思いとぶらいければ 峰にかかりし雲さえ紅く さまよい立てば 海の丘なる これぞきこえし 原の古城ぞ

三.とんとと鳴るは寄せ手の大砲 鳴らすと知らしよ こちのこづつで もっこでかかれと 下知せし四郎が 胸のクルスぞ輝きにける

四.ああ伝え聞く そは寛永の 十四の秋の見目麗しき 益田の四郎時貞なるを 一揆の首領と押し立てければ

五.四郎は十七ゼウスの神の子 続く信徒は老若男女 その数まさに四万余り 神を讃えて籠りしとかや

六.追っ手の大将内膳の守 板倉重昌率いし兵は 大村、鍋島、立花、黒田、 島津総勢五万と聞こゆ

七.詣ろうやまいろうパライソ寺に 広いと申すれどパライソの寺 広い狭いは我が胸のうち 歌であしらい小砲でととん

八.むかえ撃ったる小西に有馬 今は天主に仕えておれど 弓取り持ちし昔をしのぶ 姿やつせし浪人ばかり

九.数をたのみて烏合の衆の 指揮も乱れて重昌斃れ これに代わりし松平伊豆 兵糧攻めと立て直しけり

十.されど無勢を そも如何にせむ 刃は折れて弾つきければ ヤソマリアの名をば唱えつ 刺し違えてぞ皆果てにけり

こちら殉教賦の歌詞はまさに島原天草の乱を表現しています。祝い唄とは逆にすごく切なくなる唄ですね。

宮崎康平氏の作詞された島原の子守歌もそうですが、島原の歴史をよく捉えられて表現されてると思います。

島原七万石の民謡と島原の歴史

島原の歴史は悲しいものが多いので、できるだけさらっとご紹介しますね!

南蛮船とキリシタンを受け入れた有馬氏が去り、今を去ること400年前、松倉重政が島原四万石に就封。原城(南有馬市)を廃して、森岳城(島原市)を居城としました。

幕府の命令で過酷なキリシタン弾圧となり、ついに信徒は寛永十四年(1637)、島原の乱を勃発し、37000人の信徒は原城の露と消えたのです。

翌年、着任した高力氏は日本最大の移民政策を実行しましたが、二代、隆長の失政で改易されます。

そこで幕府は京都福知山より、徳川幕府と血縁の松平忠房に大分県国東の三万石を加え、七万石として着任させました。

領民は多いに歓迎し、着衣を改めた庄屋ほか数十人は多比良まで出迎え、行列が城下に近づくとさらに数を加えた人々が唄を歌いながら踊りました。現在も「先踊り」として残ります。

この忠房公こそハゼを特産品として藩財政を潤し、また馬匹の改良で島原名馬を産し、今も秋の風物詩として「ほろんこ市」仔馬のせり市があります。

「島原七万石」の祝い唄とは、まさに松平氏を讃えた唄と言えます。

一方の「島原七万石」の殉教賦は、松平氏が島原を治める前の島原天草の乱を描いたものです。

島原藩は禄高七万石の小さな藩でしたが、徳川幕府の親藩大名で九州では極めて格式が高く、

幕府の政策方針が変わると大名もお国変えがあり、松倉重政公から始まって廃藩置県まで、257年間に、高力、松平、松平、戸田、松平と次々交代しました。

その都度、お殿様に随行せずに島原にとどまり住み着いて、浪人になったものが沢山いたのですが、その浪人達が極めて哀調を帯びた悲歌を、憂さ晴らしに口づさんでいました。

その浪人唄が口伝えに保存されていて、のちに宮崎康平氏が島原の乱を取り入れ作詞され、民謡研究家の石川美峰先生が唄節や振り付けをされて、広く紹介されたそうです。

なので、もともとの「島原七万石」は殉教賦が先に広まりました。

その後、宮崎康平氏亡き後に、殉教賦とは別に書かれた祝い唄がある事が知られ

島原七万石を踊る会によって祝い唄を使用した踊りを披露して広まる事となります。

この二つの唄はそれぞれ「島原七万石を踊る会」によって再現されて踊られています。

踊りの振りは全く同じですが、流れる歌詞が祝い唄なのか殉教賦なのかは、踊り手により変わります。

祝い唄と殉教賦の二つがある謎

これはどうやら、「島原七万石を踊る会」の非営利団体の構造を見るとヒントになるかもしれません。

現在この団体の本部は島原市にあります。そして南島原市の原城のある南有馬町や口之津にも支部があります。

雲仙市にも支部があるので、島原半島一円で活動されているんですね。

祝い唄は松平のお殿様がいた島原城のある、島原本部の方々が「島原七万石」を踊る際に使用され、

殉教賦はまさに島原の乱の舞台である原城址のある南有馬や口之津の支部の会員さんが踊る際に使用されているそうです。

まとめ

島原の郷土芸能が若い世代へと引き継がれていくといいですね

そのために努力されている地元の方々がいらっしゃる事を忘れないでいたいと思います

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